|
30
一番見せたかったキルヴァスに生まれた緑を見せたあと、俺はネサラを伴ってもう一度キルヴァス城に戻って泊まることにした。
ここからフェニキスは近い。今から飛べば少々海峡で苦労しても夜までには向こうに着けたんだが、ネサラの帰還をあれほど喜ぶ鴉たちの様子を見ると、今夜一晩ぐらいは思うようにネサラをもてなさせてやりたかったからだ。
思った通り、食事だ、風呂だと鴉の兵も、台所を預かる者も、いずれも老いた身でありながら本当にうれしそうに張り切っていた。
ネサラは鳥翼王である俺のおまけのつもりでいるんだろうが、とんでもねえ。今でもあいつらにとって唯一無二の王はネサラだ。
もちろんネサラに恥をかかせないよう、俺のことは最上級の礼節でもって歓待しつつも、端々にそんな本音が見えて微笑ましいほどだったぜ。
……同時に、気持ちも引き締めた。
セリノスでもよく思うことだが、俺はこれほど民に慕われ、愛された「鴉王」を配下にしたんだ。
ネサラが王として立てるに相応しい王にならなけりゃいけねえとな。
なにより、「鴉王」という存在がこの国に於いてどれほど大きいものだったかを、俺は改めて感じた。
フェニキス城もべつに王城として恥ずかしい造りじゃねえが、キルヴァス城にはそれにも増して「王の城」という風格があった。
大きさは問題じゃねえ。たとえば柱にある飾り彫りの精緻さ、壁にある燭台のくすんだ銀がより重厚さを醸し出す絶妙な手入れ具合、品の良い客間の壁紙や調度品もそうだ。
なによりも、隅々まで徹底して手入れが行き届いている。そう言えばフェニキス城がかろうじて王の居城として品格を保ててるのは、建国のころに鴉たちが手を掛けてくれたからじゃねえかと思ったほどだ。
思えば、こんなにゆっくりとキルヴァス城を歩いたことはねえからな。主だった部屋を案内して説明してくれるネサラにあれこれ訊きながら、ようやく床に就いたのは夜もずいぶん更けてからだった。
風呂も快適だったぜ。ここの湯はフェニキスよりも水質が柔らかいみてえで、なんつーかこう、まとわりつく。嫌な意味じゃなくてな。
鴉の肌が柔らかくて肌理が細かい理由はあの水にもあるんじゃねえかと思ったぐらいだ。
そうか。水はけっこう豊かなんだよな。なのに緑が育たないってのは不思議だ。
………ネサラたちはとっくにそれが変だって気がついていたのに、今さら思い当たるってのがどうも情けねえ。
この分ならそのうちキルヴァスも緑が豊かになりそうだし、大きな墓地というだけで済ませるわけにゃいかねえよな。さて、どうするか……。
部屋は小ぶりだが調度品などは行き届いた客間の寝台で考えていると、遠慮がちに扉を叩く音がした。
俺が寝るつもりで無視したならすぐに立ち去るつもりのノックだな。
「入れ」
思ったとおり、遠慮がちに扉を開けて入ってきたのはネサラだ。
「なんだ、今風呂から上がったのか?」
ずいぶん遅い時間だな。
寝台から降りて上気した顔も濡れた髪もいかにも風呂上りといった風情のネサラに訊くと、ネサラは手に持った手ぬぐいで首にまとわりつく髪をうっとうしそうに拭きながら答えた。
「ニアルチがいないから一人で入ったんだ。湯船で考え事をする癖がついてるものだから、気がついたらお湯が冷めてしまって」
「おいおい、風邪ひくなよ?」
「これぐらいで風邪をひくほど軟弱じゃない」
そういう問題じゃねえと思うんだが、しょうがねえな。ニアルチのジイさんが過保護に構うはずだぜ。
慌てて引っ張り出した新しい手ぬぐいで手早く髪の水分を拭き取ると、俺はネサラをひんやりした廊下から部屋に入れて扉を閉めた。
自分に気があるとわかってる男の部屋に風呂上り、しかも真夜中にわざわざ訪ねてくるなんて無防備というかなんというか……。
普通なら色よい展開を期待するところだが、ネサラに限ってそれはないことは俺もわかってる。
だから色事めいたことは匂わせず、寝台に置かれていた薄い絹の上掛けを肩に掛けてやった。
「それで、こんな時間にどうしたんだ?」
「腹は大丈夫か?」
「あ?」
いよいよ、話がわからん。
生真面目に俺を見上げるネサラの顔をまじまじと見ると、にこりともしないでネサラが続けた。
「酒も、料理もあんたには少なかったんじゃないかと思ったんだ。急な来訪だったから、肉も用意できなかったしな。芋とパンと、干し葡萄ぐらいならなんとか用意できるぞ。酒は今は薬に使うものしかないはずだから、味は保証しかねるが」
おい、どれだけ俺を大食漢だと思ってやがるんだ!?
「いらないのか?」
表情は変わらないがどことなく心配そうに小首をかしげられて、俺は笑っていいのか怒っていいのか束の間、迷った。
「大丈夫だ。充分食わせてもらった」
「……そうか?」
「おう。なかなか美味かったぜ。おまえたちは鷹は肉が主食だと思ってるみてえだが、魚も好きだ。心配すんな」
「それは…一応、知ってるつもりだけどな」
笑って言ってやると、ほっとしたんだな。ネサラが笑って自分の肩から絹の上掛けを取り、逆に俺の肩に掛ける。
「それだけだ。大丈夫ならいい。おやすみ」
「ああ、おやすみ」
それからにこりと笑って出て行った。ったく、ちょっとぐらいは未練を見せて欲しいところだぜ。なあ?
黒い絹の夜着の後姿を見送って、つい甘いため息をつく。
ネサラは……自分の部屋に戻ったようだな。耳を澄まして扉が閉まる音を聴いて、俺も寝台に転がり直した。
ランプを消して目を閉じると、どうしてもネサラの見せた涙を思い出す。
どれだけの想いを抱えていたのか、声も出さない、ただ嗚咽を漏らすだけなのに、ネサラが初めて見せた激情は慟哭と言っても良かった。
俺は、泣くヤツがいれば慰めたくなる。笑ってほしいと思う。
それはもちろんネサラだってそうだが、あの時は違ったな。
泣きたいだけ泣かせてやりたい。
身体中の水が涸れるまで泣くなら、足りない水を飲ませてでも、泣かせてやりたかった。
まるで、あいつの中に溜まりに溜まった感情をなにもかも洗い流すような涙だったからだ。
あんな涙は止めちゃいけねえ。
思ったとおり、泣いたあとはやけにすっきりした顔をしてたしな。本人は涙腺の掃除をしただけだと言っていたが、もしかしたらその通りかも知れん。
まあ、どさくさに紛れちまったか、俺の伝えた想いはまだちゃんと心に届いてねえのかも知れねえけどよ。
……ここからが問題だな。俺がどう口説いたところで、この先はネサラの心が決めることだ。
手を伸ばすだけじゃ足りねえ。かといって強引に掴んで引きずり出すわけにも行かねえ場所に、ネサラの心はある。
なんつったって頑固だしな。自分で納得しない限り、あいつは俺を受け入れようとはしないだろう。
ただ強引に関係を持つのは簡単だ。だが俺は、ネサラが自分に言い訳してずるずると関係を続けるようなことはさせたくねえ。
俺のことだけじゃねえよ。いや、もちろん俺はネサラが欲しいが、それだけじゃねえんだ。
これから先の長い人生がある。一生誰も受け入れずに生きて行かせるようなことはさせたくない。
もちろん、色恋だけが重要ってわけじゃねえぞ? 中にはそんなことにこだわらず楽しく生きていけるヤツだっているだろう。
だがネサラはそうじゃない。
淋しがりやだ。誰かに依存する、頼るって意味じゃなくても、誰かに添う、添われる時間が必要なんだよ。
俺に限らず、リアーネに限らず、あいつが誰かを想った時に、自責の念で諦めちまうことがないように。
俺は、きっかけでもいい。
そんな気持ちがあった。
あー…いや、本心はな。それだけで足りるかって気持ちの方が強いけどよ。
俺じゃない誰かのそばで幸せそうに笑う顔を見たら、うれしい反面、嫉妬で翼が焼け落ちるかも知れん。
自分でも驚いたぜ。こんなに独占欲が強いタチとはな。
次の朝、俺たちは老兵たちに心からの感謝を伝えてキルヴァス城を発った。城が見下ろせる位置で、鴉の兵に付き添われ、花束を持参して墓参りに訪れた鴉の老婆に来訪を泣いて喜ばれながら、ネサラは労いの言葉を返して見送る。
いつか、セリノスから苦労して持ってこなくても手向ける花をこの地で見つけられる日が来るだろう。それも、遠くない未来にな。
感慨深くキルヴァス城を見下ろしながらしみじみ考えていると、隣のネサラも同じような表情をしていた。
「行くぜ」
次は、フェニキスだ。
緊張させたかと思ったが、意外なほどネサラは穏やかな表情で頷いた。
先に化身して飛ぶ。ネサラもついてきた。
昨夜はフェニキスまでの時間が気まずいものにならねえように、あれこれ話をしようと思って話題を考えたもんだが…必要なかったな。
うっかり高度を上げすぎねえように風の道を読んで飛ぶ眼下に、きらきらと美しい海が広がっている。戦争が終って運搬船が行き交うようになったからな。
沖を進む大きな船が作った波の頭があちこちで白く見える。この辺りの海の色は淡く緑を帯びた青だ。
夏になれば沖にくっきりと黒潮が濃い色の筋になって見える。その季節にはベオクの漁師が増えるから、海鳥が賑やかになるんだよな。
それに、ベオクと仲が悪かったとは言え、まったく付き合いがなかったわけじゃねえ。特に漁師連中は酒の話でもよく気が合うし、大物を捕る時に海に落ちたヤツを助けた経緯なんかもあって、意外に付き合いが多かった。
ネサラは情報としては知ってるだろうが、実態はわからねえだろう。そのころにもしネサラがセリノスに戻ることがあれば、一度連れてきたいもんだ。
目の前で山のようにでかい鯨をさばくところを見たら、きっと驚くに違いない。俺だってたまげたからな。
一番風の荒れる海峡にさしかかり、ネサラが俺の斜め下に来た。こういう場所で一番ネサラが鴉だと実感する。鷹の俺とは凌ぎやすい風の質が違うんだ。
俺だと本気で力ずくじゃなきゃいなせねえような細かく風が乱れたところを、ネサラは器用にかいくぐって優雅に高度を下げて行く。俺は逆に高い位置の大きな塊になった風がせめぎ合うところの隙間を狙って旋回しながら降りる。
俺一人なら超高度でフェニキス城が見えるとこまで飛んで急降下するんだが、今回はネサラがいるからな。
ここを越えりゃ、いよいよフェニキスだ。
見えてきた鮮やかな色の故郷に知らず胸が高鳴った。
ネサラが先に化身を解いてフェニキスを見下ろす。俺も人型に戻りながら隣に並んだ。
「どうだ? これからが花の季節だぜ」
「油や塩は撒かれなかったと聞いたが……燃やされた建物が多いんだな」
「まあな。でも、建て直してる」
「畑も荒らされたんだろう?」
「戦った時にな。収穫できなかったものも多いが、また植えたから今年は大丈夫だ」
やっぱりネサラの表情が冴えない。だが、美しく咲いた花やすっかり勢いをつけて元のように広がり始めた緑よりも、今も残る破壊の爪痕を探そうとする生真面目さはネサラらしい。
確かに、起こったことはなかったことにはできねえし、ここでフェニキスを守ろうとして死んだ鷹の数が少なくねえのは事実だ。
その命の重みは、俺も、ネサラも生涯背負って行かなきゃならねえ。
「ネサラ、行くぞ」
「…………」
いつまでも強い目で地上を見つめるネサラに声を掛けると、無言で頷いた。フェニキス城は岩と繋がるような形で建ってるからな。
こうして飛ぶと、まるで岩山に向かってるような感じだ。
城が見えてきたころ、物見の鷹が俺たちを見つけたんだろう、数人の戦士がこちらに向かって飛んできた。
「王! 鴉王もよく来たな!」
「お久しぶりです!」
「……久しぶりだな。今日は邪魔をする」
俺が戻ったのも久しぶりだからな。どの顔もうれしそうだ。
ネサラは親しげに出迎えた鷹の連中に面食らったようだが、おとなしく挨拶を返す。
「ど、どうしたんだ? 鴉王、まだ具合が良くないのか?」
「あんたがおとなしかったら気味が悪いぞ?」
ここで憎まれ口の一つや二つ叩くのがいつものネサラだったからな。本気で心配されたネサラは憮然とした表情になってやがった。
そう言えば突っ張らなくても良くなって初めて来たわけだからな。どんな顔をすりゃいいかわかんねえってとこだろ。可愛いヤツめ。
「今日は一段と風が荒れてたから疲れたのさ。病み上がりだしな。それで、どうだ? 調子は」
ネサラの頭を掴むように撫でながら訊くと、連中が顔を見合わせてにっと歯を見せて笑う。ほお、順調らしいな。
「百聞は一見にしかずだろ。見てってくれ」
「柵はまだ急ごしらえだけどな」
「よし、じゃあさっそく行くか」
「え? おい…」
ネサラの腕を掴んでフェニキス城を飛び越え、谷間に川が流れる岩山地帯を越える。この向こうは緑に覆われた豊かな草原と小さな森が広がっていた。
ニンゲンに襲われたのは船が着ける範囲にある集落だけだから、そういう意味ではここが無事だったのは大きい。穀物庫はやられたし、民の生活の場が壊されたのは違いねえが、本当の意味でのフェニキスは岩山に囲まれた場所にあるんだからな。
しかし、これからは交易のことを真剣に考えなきゃならん。ベオクと取引するってことは、フェニキスに港を整備するってことだ。
正直、乗り気じゃねえよ。だが、クリミアからベグニオン、デインへまとめて荷物を運ぶにはどうしたって途中で補給できる拠点が必要になる。
ネサラは俺たちの海域を通過させて商売させてやるんだから、その分の通行料も含めて取れるようにと真っ先に関所の設置を提案をしていた。
ベオクに舐められねえためには最初が肝心なんだとよ。
今はベオクの主だった港に配下の者を配置して、通行料を取ってるらしい。もちろん、近年中に完成させるフェニキスの港の宣伝もしながらな。
通行料にはこの海域内で海賊から船を守ってやる分も含まれてる。ついでに海難救助にまつわる費用の一部もな。
俺に言わせりゃそんなことに金を払ってもらわなくてもと思ったが、ネサラは鷹は人が良いから、ベオクの船の通行が増えれば助けてやることが増える。ベオク相手に金にならない労働はさせないとのことだった。
辛辣な言いようを聞いて正直複雑だったが、確かに過去ラグズの甘さがベオクを付け上がらせてきたってことはある。
まったく、どんなに落ち込んでいようが、その辺りの行動が素早いのはさすがだぜ。
「あれは…農場か!?」
「なかなかのもんだろう? 向こうは牧場だ。この辺りの住人はほぼセリノスに移住したからな。交代で住み込んでよ、肉も穀物もひっくるめて大きな食糧生産地にしようって寸法だ」
「すごい…。この規模なら、輸出の黒字も期待できそうだ。フェニキスの土壌は小麦や米、野菜の栽培に適してるし、柑橘類も手を加えればもっと甘くて美味しいものができる」
「そ、そうか?」
興奮した様子のネサラにまくし立てられて驚いたが、こうなったネサラは俺の顔なんか見ちゃいねえ。頭に思い描いたフェニキス、セリノスの地図と照らし合わせてあれこれと考えはじめたようだった。
「お茶と葡萄はクリミアが最高だが、セリノスだって負けてないと思う。俺が見たところ、葡萄は霧の多い地域のものが美味い。葡萄酒にする場合は特にな。今は薬草や花とハーブのお茶が有名だが、いずれはそのあたりでも勝負したいところだな。あとフェニキスといえば酒だ。火酒みたいに強いのが自慢で味は二の次なんて酒は量産したってしょうがない。俺たちはベオクに比べてせっかく寿命が長いんだから、熟成に力を入れるべきだ。どんな種類が良いかまだわからないが、長期熟成型の美味くて強い酒造りに取り組まないとな……」
長期熟成型というと、ベグニオンで飲んだ酒で多いあれか? ものによると十年、二十年寝かせてどうこうするとかいう。
む、難しいと思うがな。基本、俺たちの酒はできたらすぐに飲んでなくなる。味にこだわる鷹はいねえよ。つまみの肉の塩加減を気にする程度だろ。
大体、山と積んだ酒樽を見て熟成させるから我慢しろなんて、なんの拷問だと思うだろうぜ。
「ティバーン、向こうが羊か? こっちは…牛?」
「あ? あぁ…そうだな。養鶏所もでかいのができてるぜ。今は数を増やしてる段階だけどよ」
「それなら、しばらく卵は控えめになるな」
「ああ。まあそれでも食えねえわけじゃないさ。おまえが食いたいならいくらでも調達してやるぜ?」
「卵は子どもや病人、歯の弱った年寄りにも食わせたいから早く増やしたいところだ。フェニキスは燻製作りにもいい場所があるし、バターやチーズも欲しいんだが、まず職人を育てるためにどこへ修行へ出すかだな……」
肩を抱き寄せておどけたところで、ネサラの耳には届いてねえ。顎を指でつまんでにこりともしやがらねえでぶつぶつ考えてやがる。やれやれ、大した集中力だぜ。まったく。
「ネサラ、城の中を見たくねえか?」
「え?」
「見たい場所があれば案内するぜ?」
そのつもりで来たんだしな。そう思って落ち着いたころを見計らって声を掛けると、ネサラは少し考えて「べつに」と来た。
ベオクの城はどこもかしこも見て回りたがるくせに、なんだ、この差は!?
「フェニキス城の内部はもう大体把握してるからな。見たい本があるわけでもないし、有用そうな本はロライゼ様が見繕ってセリノスに運んだあとだし、何回か招かれて散々あんたに案内されたから」
「そ…そうだったか?」
「忘れたのか? ……まあ、べつにいいけど」
いかん。そう言えば酔っ払ってこいつに言われるまま見せて回ったことがあったような気がする。
「あんたには隠し事なんかないだろう。今さら俺の知らない場所なんてないんじゃないか?」
しかも呆れ顔でそんなことを言われて、俺はむかっと来た。
知らない場所? いくらでもあるとも!
「なんだよ?」
「おまえに見せてえ場所はまだあるぜ。ついて来い」
くいと顎をしゃくって飛ぶと、ため息をついたネサラがついてきた。次に向かったのは海辺にある小さな集落だ。ここも今は無人だが、家は取り壊さずに置いてある。フェニキスに交代で住んで農場や牧場の管理、それからいつか出来る港と海上警備をする連中の住居にするつもりなんだ。
人が住まなくなったら荒れるからな。もうすぐ第一陣がここに住む手はずだった。
「ここがヤナフの家で、ちょっと向こうがウルキの家、それでこっちが俺の生まれた家だ」
ネサラの手を取って玄関に下りると、ネサラが目を丸くしてきょろきょろと辺りを見回した。
「しばらく無人だったからな。雑草なんかが生えてるが、もうちょっとしたらまた人が住むようになる。まあ入れよ」
鍵も開けっぱなしだ。つか、この辺りじゃ鍵なんか掛ける習慣もねえけどよ。
頑丈な扉を開けると、木と潮風の混ざった懐かしい家の匂いがした。お袋が生きていたころは、いつだって煮込んだり焼いたりした食い物の匂いがしてたっけな。
「台所…やっぱり、かまどが大きいな」
「おう。でかい肉とか魚を丸ごと焼くからな。この水瓶をいっぱいにするのが、ガキのころの俺の仕事だった」
「へえ、大変そうだ」
「大変だとも! 水場まで何往復したかわからねえぜ。もっとも、知恵がついてからはこう、でかい籠を用意してな。四人で大きな壷に水を汲んで籠で運んで、交代で各家の水瓶をいっぱいにしたんだ。そうしたら腕力がねえヤツも同じぐらいに手伝いを済ませて遊べるからよ」
俺は人一倍力があったからすぐ終わるのに、ダチはそうは行かねえ。早く遊びたい一心で俺が提案して、ヤナフとウルキが設計図を考えて、いっしょに作ったんだ。
ネサラはおもしろそうに笑って食卓を撫で、食器棚を見て目を細めていた。
「ご両親は…いないんだろ?」
「ああ。親父は誰かわかんねえし、お袋も俺が兵役につくころ亡くなったんでな。けど、淋しくはなかったぜ。ダチもいたしよ。この奥がお袋の部屋で、上が俺の部屋だ」
狭い階段は面倒だからガキのころは飛んで上り下りしたが、今は翼を広げられるだけの余裕がねえから足を使わなきゃ上がれねえ。古い木製の階段は俺の体重にぎしぎしと軋んだ。
神経質なネサラが気にするんじゃねえかと思ったが、案外平然とした顔でついてきた。
「まあ、入れよ」
俺がどたばた出入りしたせいで立て付けが甘くなった扉に気をつけながら開けると、……こんなに小さかったんだな。手を上げたら触れるぐらい天井が低い。
窓にくっつけて置いた寝台と、もっぱらガラクタ置き場だった戸棚、勉強より工作する時間の方が圧倒的に長かった小さな机がある。
窓にカーテンはねえ。俺は日が落ちたら寝て、日が昇ったら飛び起きるガキだったから、いらなかったんだ。
「やっぱ匂いがこもるもんだな。すまん、すぐ換気するから」
ネサラは黙ってあちこちを見回していた。自分じゃあんまり感じねえが、汗臭いかも知れねえ。ロッツがシーカーに言われたんだと。
鷹の男は汗臭いってよ。だから鷹の男の部屋は入っただけでわかるらしい。
ちゃんと毎日汗は流してるんだがな。そう言われると気になるだろ。
窓を開けると、すぐに気持ちの良い風が入ってくる。ネサラは俺の使っていた寝台に掛かった大きな上掛けを撫でて笑っていた。
「なんだ?」
「いや…手の込んだ刺繍だと思って。それに、見事なキルトだ。これは母上が?」
「ああ、たぶん」
「鷹の女たちは生まれる子のために、元気に育つよう願いを込めてこんな風に寝台の上掛けを作ると聞いた。これを見れば、あんたがどんなに母上に愛されていたかわかるよ」
「よせよ、こっ恥ずかしい」
そんなこと言われたら、最近じゃめっきり顔も思い出さなくなったってのに、お袋に申し訳なくなるじゃねえか。
不覚にもじんとして涙が出ちまいそうでよ、俺は慌ててネサラの手からキルトの上掛けを取って窓でばさばさとはたいた。
いや、埃っぽいかと思ったからだぞ。
「干すのか?」
「そんなこと言われたら、もしカビたらお袋に怒られそうな気がするだろ」
「賢明だ。きっと喜んでるさ」
ったく、こんなこと考えたのは初めてだぜ。
くすくすと笑ったネサラは今度は壁に作りつけになった棚を調べ始めた。
「この模型は…馬車か? こっちは?」
「ガキのころ、親父がわりだったおっさんたちにベオクの…なんだっけ。芝居のチラシをもらってよ。そこに描かれてた絵と実物を見たことのあるおっさんの話を参考に作ってみたんだよ。ちゃんと動くんだぜ。こっちは鳥の形の玩具な。一応飛ぶように作ったんだが…って、もうそのあたりはいいだろ?」
ガキのころに作ったガラクタを見られるのは意外に恥ずかしいもんだ。それなのにネサラはどれも珍しそうに手にとって調べたがる。
「なにがそんなに楽しいんだ?」
どうしても離れそうにねえから呆れて聞いてみたんだが、意外な答えが返って来た。
「あんたは俺より歳上だから最初からそんなナリをしてる気がしてたけど、この部屋にいたら子どものころのあんたの姿が見える気がする」
「あのな…いくらなんでもこんな図体で生まれてたまるかよ」
「まったくな。母上のお腹が大変になるぞ」
俺の使っていた工具箱を見つけて笑ったネサラに、俺も釣られて笑っちまったよ。
そういえばあの工具箱は、親父だと俺が勝手に決めたおっさんからもらったものだったな。強い戦士だった。
今思えば俺に似たところはどこもないから、本当の意味での親父じゃなかったかも知れねえが……お袋のことを一番好きなのは、あのおっさんだったと今でも思う。
「使い込まれた、いい工具だな。細工用の刃物は手入れが命だ。よく錆びずに無事だったことだよ」
「あぁ、そりゃ徹底的に手入れはしてあったからな。持ち出すつもりが忘れてた。今回持って帰るさ」
いつか、俺も自分の息子と思ったガキにこれをやろう。そう思った。
鷹は強さが信条だが、実際には手先を使う仕事にも長けてる。鴉のような根気はねえが、堅い木の彫り物とか力の要る細工を正確に作るのは大の得意だ。
「さて、次は海に出るぜ」
「え?」
「きょとんとしてるなよ。そんな服じゃ台無しだぜ? 脱いどけ」
「脱げって…着替えは下着しか持ってないぞ」
海に行くんだから下着一枚で上等なんだがな。とりあえず箪笥を漁ると、俺の着ていた服が何枚か入っていた。
「ほら、これ着ろ。ガキのころのだからさすがに小さいかも知れねえが、なに。横幅は問題ねえ」
「着ろって…これ、いつ洗濯したものなんだ?」
「入れる前には洗ってあるんだよ。いいから脱げ!」
鷹の民にとっては一番標準的な、夜着にもなる脇を紐で結ぶ短衣と下穿きだ。脱ぐのも着るのも楽だから重宝する。当時の俺には七分丈だったんだが、ネサラに着せると、膝丈ぐらいになった。
「どこまでも強引だな! そんなだから鷹の男は乱暴者だと言われるんだ」
「海で遊ぶのにこんな服で行けねえだろうが。ここに掛けとくぜ」
「……靴はどうするんだ?」
「ンなもんいるかよ。裸足だ、裸足!」
一体なにをするんだと思ったらしいネサラは目を剥いたが、俺は気にせずに服とブーツを脱ぎ、バンダナも外す。下着と下穿きだけだが、いつものは濡れたら重くなるからな。さすがに部屋着のものに変えた。
「海で遊ぶって…本気か!?」
「本気だとも。キルヴァスではしないんだってな?」
「危ないだろ。あの辺りは潮がよく渦を巻いてるし、岩も多いから岩海苔を取ったり海草を取る時ぐらいしか行かないんだ」
開けたままの窓から飛び出して海を目指すと、ネサラが困惑した様子で俺の手を振りほどこうとする。
フェニキスも岩の多い島だが、それでも遠浅で綺麗な砂浜があるからな。
ここはもうほぼ南国で暖かいとはいえ、まだ春になったばかりだ。気温も水温も泳ぐにはちょっと低いが、あとから暖めた酒でも飲んでおけば風邪はひかねえよ。
しばらく飛ぶと海が見えた。このあたりの砂浜は白いし、真夏だと眩しくて昼間は目がやられるほどだ。
砂浜を通り越して群れる海鳥の上から緑を帯びた青い海の上に降りると、ネサラは爪先が濡れるのも嫌だといった様子で膝を曲げて非難を込めた視線で俺を睨みやがる。
「……泳ぎたけりゃ一人で泳げ。俺があまり泳げないのは知ってるだろ」
「いっしょに潜りゃ溺れやしねえよ」
「まだ春だぞ? 風邪をひかせたいのか?」
「そんなわけあるか。あとで薬をやるよ。じゃあ、ちょっとそこで待ってろ」
「薬ってどうせ酒…あ、おいッ」
じっとり睨む膨れっ面の鼻先に軽く口づけると、俺は一息に潜って翼をしまった。
今日は波も穏やかだし、思った通りだ。濁ってねえ。
この先の珊瑚礁の見事さを見せたくてな。そりゃ鮮やかな色の魚が群れをなして泳いでいて、太陽の光がゆらゆらと海底の模様をいろんな表情に描いて綺麗なんだぜ。
まあごく稀にクソでかい鮫が出るらしいが、それさえ気をつけりゃ問題ない。季節を間違えたら危ないらしいが、美味い貝も採れるしな。
ざばっと音を立てて海面に顔を出すと、やっぱりネサラが思案顔で浮かんでいた。俺を残して帰ろうとしないあたりの甘さが可愛いんだよ。
「こいよ」
「…………」
「大丈夫だ。ほら」
まだ迷ってるが、翼を出して手を引くと、ネサラは渋々と足を海水に浸し、ずいぶん覚悟を決めた様子でゆるゆると水に入る。
「な、思ったほど冷たくねえだろ?」
「充分冷たいだろ。少なくとも、普通の者は漁ならともかく、泳ごうなんて考えそうにないと思うんですがね」
「ぼやくな、翼はしまえ。でなきゃ潮の流れに揉まれるぜ」
いやいやながら翼を消したネサラは諦めたように深く息を吸う。よし、大丈夫そうだな。
俺も息を吸ってネサラの腰を抱いたまま、一息に潜った。このあたりの水深はせいぜい数メートルだ。潜ることに慣れてなくても息が続かないってことはない。
だが、ふと横を見るとネサラは俺の負担にならないよう固まっているだけで、目も閉じていた。おいおい、それじゃ意味がねえだろ。
水中だし、しゃべれねえからな。そっと瞼に口づけて背中を叩いてやると、やっと目を開く。
ははは、びっくりしてるな。海も上から見るのと中から見るのとじゃずいぶん違うもんだ。
そのまま少し手を引いて珊瑚礁の方に泳いだんだが、行き着く前にネサラにきつく腕を引かれて、俺は慌てて海面に出た。
俺とネサラじゃ息の続く時間が違うらしいな。
「こ…ッ、殺す気か!」
「悪い、緊張すると息が続かないらしいぜ。どんと構えてろよ」
「できるかッ!!」
ぜいぜいと苦しそうにしながら怒られたが、嘘じゃないぜ? 漁師のおっさんがそう言ってたんだよ。慣れりゃ何分でも潜れるようになるらしい。実際、溺れてんじゃねえのかってほど海から上がってこなかったヤツも見たことがある。
「この先の珊瑚礁を見せたかったんだよ。いきなり上に降りると魚が逃げちまうからよ。ただ怪我はしねえようにな」
「……鮫も出るんだろ?」
「血が出てなきゃ大丈夫だ。あいつらの餌はまだ沖の群れの時期だろ」
笑ってそう言うと、俺はもう一度大きく息を吸わせて潜った。赤や淡い色の小さな珊瑚の塊が点在して、のそのそと蟹が歩く。そばを泳ぐ平べったい大きな魚に目を剥くネサラに笑いながら大きな岩場を回りこむと、海の中に広がる珊瑚礁が目に飛び込んできた。
木の枝みたいになったもの、平たく薄い楕円形が連なったもの、さまざまな色がせめぎ合い、そこに青や黄色、赤の派手な魚が大小の群れを作って優雅に泳いでいる。
やっぱり見事だ。ネサラも陶然とした目できょろきょろと見て、そばに来た黄色い小魚に突かれて笑った。
海の中で見ると、ネサラの肌がやけに白く浮かぶ。そこに映る水の揺らめきに見とれちまいそうだった。これで泳げないってのが不思議なぐらい、水の中が似合ってるんだ。
ネサラは珊瑚が気に入ったようで、白や赤、二つが混ざったような柔らかい薄桃色の珊瑚を拾っていた。
この珊瑚も、ベオクの国じゃ宝石として珍重してるそうだ。確かに綺麗だよな。
ついでに、もう一つ俺が見せたかったのはこの少し先にある岩みてえなものだ。
たどり着く前にまたネサラが俺の腕を引くから、もう一度息継ぎをさせる。さっきより長く息が持つようになったのは、緊張がほぐれてきたからだろうな。
傍目には俺が両手を広げた幅の倍ぐらいの、ただの岩だ。だが、実は岩じゃねえんだよ。
不思議そうな顔をしてるネサラにちょっと笑って、俺はそのあたりに落ちた大きな珊瑚の枝でゴツっと岩を叩く。
「!」
とたん、ぎざぎざの大きな口が現われて俺が持っていた珊瑚がバクリと飲み込まれ、ネサラの口からもガボっと空気の泡が出た。おっと、やべえ。
水を飲んだんだろう。しがみつかれたら俺まで溺れることがあるからな。苦しがるネサラの背中に回りこんで水面に引き上げると、思ったとおり盛大に咳き込んで飲み込んだ水を吐いた。
「悪い、大丈夫か?」
ネサラはしばらく声もねえ。もう水に浸かるのは嫌になったかも知れねえし、抱えたまま翼を出して海から出ると、遅れてネサラも翼を出してなんとか落ち着いた。
「な…なんだ? あれは!?」
「なにって、貝だよ。でかくねえ?」
「でかいなんてものじゃ…」
「ははは、ベオクの漁師も恐がってるぜ。岩だと思って油断して、何人も死んでるんだとよ。鷹のガキも海で遊ぶから、岩には絶対近づくなって言われたもんだ」
噛み付かれたら最後、そこを切り落としでもしねぇ限り助からねえ。しかも、水の中だからな。切り落とすまで息が持たねえんだ。
そこまで説明すると、ネサラは海水が染みたらしい目を瞬いてしばらく考え込み、いかにも忌々しそうに言いやがった。
「……いくら食いでがあっても、あれじゃ獲れないよな……」
いやあ、こいつのどこまでも懲りねえ性格がいいぜ。
「もうもぐるのは嫌になったろ。浜に戻ろうぜ」
「いや、もう海自体堪能したから陸に帰りたいんだが……」
「綺麗な石とか貝殻とかあるだろがッ。来い!」
顔色が少しでも悪くなったら水から上がるのが鉄則だからな。これ以上潜るのは中止だ。こいつの息がもうちょっと続いてくれるなら海中洞窟とか、まだまだ見せたい所があったんだがな。
静かな波が寄せては返す波打ち際に降りると、小さな蟹がちょこまかと歩いていた。こいつは丸揚げにすると美味いんだ。卵を抱えてるヤツなんて最高だぜ。味をちょっと濃いめにつけりゃ、びっくりするぐらい酒に合う。
「この貝は中が空っぽだ。トゲトゲしてるけど白いし綺麗だな」
「リュシオンも同じことを言ってたぜ。あいつは大物ばっか狙って探してたな」
「でも、大きいのは海の中だろ?」
「おう。大抵魚の家になってるから可哀想で取り上げられねえって教えたら、『代わりに家になるものを上げるから、引っ越してくれないかな』なんて真剣に言いやがった」
もちろん、ガキのころの話だが。
身振りつきで教えたら、一瞬目を丸くしたネサラが「リュシオンらしいな」と笑った。
「このあたりの貝殻は綺麗だからお土産にいいな。できれば珊瑚も欲しかったんだが」
「それはあとで俺が拾って来てやるよ。小さくて、色が綺麗で、形も良いヤツだろ?」
「その通りだ。あんたの審美眼に期待してるぜ」
この野郎、信じてねえな!?
にやりと笑ったネサラはあからさまにむっとして睨む俺にそれ以上なにも言わず、今度は貝殻探しに熱中した。
真っ白な巻貝、トゲの多い貝、ほかにも色が綺麗だったり、形がおもしろい貝がいくつも落ちていて、俺から見りゃどれも充分良いと思うんだがな。ネサラは厳しく選りすぐってどれを誰に渡すか考えていた。
あれだけ集めるなら入れ物が必要だろう。
ネサラが貝殻を拾う間に近くに生えた葦のような草で簡単な編み籠を作って「ほらよ」と渡すと、喜んで使ってくれたぜ。
このあたりはすぐに編んで籠に使える草が多いから、俺たちは本当に身一つで海に来ることが多い。でも、知らねえヤツから見たらこういうことも楽しいんだな。
「ちゃんと実用性があるんだな。あの辺りの草か?」
「そうだが、やめとけ。慣れねえヤツが編むと大抵指を切るんだ。おまえの指はセリノスの財産なんだからな」
「なんだそれは。大げさな」
ネサラは呆れるが、本当のことだろ。実際、ネサラほど早く見事な字で、かつ正確に書類を書ける文官はまだいねえんだから。
「こうして見ると、この辺りはあまり厄介な海流がなくて良かったな。あんたはいろんな遊びをしてきたんだろ?」
「そうだな。ほかには波打ち際に立ってな、大きな波を待って引きずり込まれねえように我慢したり、砂で城を作ったりだな。水路も掘るんだぜ。山にも俺たちの自慢の遊び場がある。そういや、そろそろ木苺が採れる季節だ」
「どの遊びも足腰が鍛えられそうだな。山遊びは薬草や食える植物の勉強にもなるし、砂の城作りもおもしろい。どうすれば崩れにくい構造になるか、波から城を守れるか、子どもに頭を使わせるには良い手だ」
「いや、べつにそういうことを考えて遊んでたんじゃねえぞ? やってみるか?」
「………俺が?」
「何事も経験だろ。この時期は波が小さいから、やるなら城だな」
ネサラはきょとんと俺を見上げたが、先に良い砂場に歩いて行くと貝殻を入れた籠を岩場に置いてついてきた。
本当はせっかく遠浅なんだから岩の色が綺麗な岩場の上を歩かせたかったんだが、この時期はウニが転がってることが多いからやめたんだ。あれは踏むと酷い目に遭うからな。
ネサラも城を作るのかと思ったが、ネサラは黙って俺が作るのを見ていた。だが参加するつもりはあったらしく、水路の位置を訊かれたりな。
砂の城を作る醍醐味は、波との格闘だ。だから波打ち際に近すぎても、遠すぎてもいけねえ。そこそこ水を吸い込んだ砂できっちり形を作れないと面白くねえし、場所選びも重要なんだぜ。
その点、俺は同じようにこういうことにこだわるヤツらと切磋琢磨しあって、今じゃ無駄な名人の一人だ。
「ヘラが欲しいな」
「あ、木の棒でいいか?」
だからじゃねえが、ネサラを楽しませるつもりがだんだん城作りに熱中しちまって、最後にはネサラを小間使いみてえにコキ使っていた。このプライドの高い男がよく怒り出さなかったもんだ。
「テラスは? 俺の部屋はここだから…このあたりが空中庭園だと良いな」
「任せとけ。よし、それならこの下に噴水が欲しい。あれ好きなんだよな。壷持った女の像のヤツ」
「それは単にその女が裸だからじゃないのか?」
空中庭園なら花が欲しいよな。でもそんなもんねえし……お、そうだ。さっき掘り出した時に小さな花びらみてえな貝があったな。あれにするか。
ネサラが取ってきた小さな貝を使ってやけに豪勢な城が完成した時には、肩も腰もばきばきに凝っていた。
「へえ、これが砂の城作りか。いや、見ているだけでおもしろかった」
「まあな。こ、腰が痛え! 久しぶりだから疲れたぜ」
「俺は身体中がべたべただ。水を浴びたいとこだが、ここまで来たら堀にちゃんと波が流れ込むところを見たいんだがな」
そう言って海水でべったりと固まった髪を嫌そうにまとめるネサラの白い頬にも砂がついていた。もちろんむき出しの手足にも。
いつものベオクの貴族みてえに気取った姿からすればずいぶん趣は違うが、こんな姿も良いもんだ。
本当だったらもっとガキのころにこんな風に遊ばせてやりたかったぜ。
「あ…来た」
「波か?」
「不味い。大きすぎるかも知れん」
「あー…そういや、この時期に大きな商船が沖を通るとかなんとか言ってたような」
頭の片隅にあった書類の内容を思い出して言うと、ネサラは沖から向かってくる今までよりも明らかに大きな波のうねりと城を見比べて悔しそうに唇を尖らせた。
こういうものは、壊れるのが醍醐味なんだよ。俺だったら小さな波でちまちま壊されるより、一気に波を被って流される方がすっきりするぜ。
「ネサラ、そろそろ波の引きが強くなる時間だ。下がるぞ」
俺でも踏ん張りきれずに転ぶことがある。そう言って下がらせると、思ったとおり大きな波が押し寄せてすっぽりと俺の力作を飲み込みやがった。
「……堀が役に立ってない」
「城よりでかい波じゃどうにもできねえよ。女神の起こした大津波はもっとすごかったろうな」
憮然としたネサラの背中を叩いて言ってやると、いかにも嫌そうな顔で頷いてため息をついた…んだが、続けて思いがけないものが聞こえて、思わず俺はまじまじとネサラの顔を見ちまったんだ。
いや、ネサラの腹が鳴ったんだよ。釣られて俺の腹も鳴ったが、驚いた。こいつの腹でも鳴るんだな。初めて聞いたぜ。
「え、いや…俺はべつにッ」
自分でもびっくりしたんだろう。だんだん顔を赤くして、恥ずかしそうに腹を押さえて言い訳を考える。けど、思いつかねえよな? こんなもん生理現象じゃねえか。
「そういや、昼飯を忘れてたな。適当に調達したもんでいいか?」
なのに、一体なにがそんなに恥ずかしかったのか、焦った様子で俯いて今にも逃げちまいそうなネサラに努めて普通に話しかけると、ようやく顔を背けたままながら頷いてくれた。
「肉と魚、どっちが食いたい?」
「どっちでもいい」
腹が減ってえり好みできる状態じゃねえんだよな。はは、それはわかる。
「その辺りにたくさん流木が落ちてるだろ? なるべくしっかり乾いたのを集めといてくれ」
「……わかった」
「そんなに待たせねえよ。待ってろ」
いよいよ元気がなくなって来たネサラの肩を叩いて羽ばたくと、俺はさっき籠を編んだ草を適当な束で引きちぎって飛び、一番近くの森のある山を目指しながらやや目の細かい籠を編んだ。
俺は腹が減るのは人生でもかなり辛い現象だと思う方だが、今はまったく苦にならねえ。まさかネサラに空腹を訴えられる日が来るとはな。なんだかニアルチのじいさんの気持ちがわかった気分だ。
そうだよ。生きてりゃ腹が減る。当たり前のことだろ。腹が減ったら飯は美味いんだ。
この辺は変わってねえな。山に入るといつも遊んでいた辺りにはもう木苺がたくさん実っていて、甘酸っぱい良い匂いがしている。熟してるのを素早くより分けて籠に放り込み、その間に見かけたウサギを化身して狩ると、もう一度自分の家に戻った。次は銛とナイフ、水筒用の空き瓶、塩と火打ち石を握って飛ぶ。
途中の水場で水を汲んで浜辺に戻ると、ちゃんと流木を集めたネサラが俺を待っていた。
「ほら、肉が焼けるまでこれを腹の足しにしてろ」
「いや、でもあんたも腹が減ってるのに俺だけ食べるのは」
「いいから。俺はまだやることがあるんだよ」
ネサラに木苺の入った籠を渡して手早くよく太ったウサギを捌き、石を敷いて流木を組み、火床を作る。ちゃんと乾いた流木をより分けてくれてたから助かった。すぐに燃え上がった火に塩を振ったウサギの肉を掛けると、次は魚だ。
もちろん俺も食いたいが、なによりこいつに食わせてやりてえからな。張り切って獲ったさ。ネサラは木苺を食いながら、てきぱきと串刺しにした魚も火に掛けて一息ついた俺を見て、しみじみ言いやがった。
「あんたに食い物を確保させたら頼りになるというか……すごいな」
「それだけかよ!」
おまえのためだぞと言い返したいところだが、焼きあがったウサギの肉を見てよだれが出そうになったんだから、言う資格はねえな……。
本当は芋も焼きたかったし、ほかにも用意したいものはあったんだがな。腹が減りすぎてたから、そこまで出来なかった。
だが、ウサギの肉も魚もネサラは美味そうに食ってくれた。あのいつでも「お上品な」食い方しかしなかったネサラに、俺が思わず「火傷しねえように食え」なんて言っちまうような勢いでだ。
見てるとうれしくなってきて、結局このあと三回、魚を獲って来て焼いたぜ。体格が違うからな。俺と同じぐらいとまでは行かねえが、こんなに食ってくれたなら用意のしがいもあるってもんだ。
おまけのつもりだった木苺も美味かったようで、土産に持って帰りたいと言うもんだから、明日の出発直前にいっしょに山に行く約束をした。セリノスまではかなりかかるから枝つきのまま採りたいんだ。木苺の枝はどうせ実が落ちる時に枯れるから、山の傷にもならねえしな。
食った後は海に浮かぶ大きな岩場に行って、「海の叫び」と呼ばれる音を聞かせた。ちょっと入り組んだ岩場で、大潮の時は隠れるぐらいの穴が空いてるんだ。ここからすげえ音がするんだよ。
中を通る波の関係でそんな音がするらしいんだが、ガキのころは大人が言ったとおり海の怪物の咆え声だと信じて、そりゃ恐ろしかったな。
まあすぐに俺が退治してやると息巻いたりしたんだが、ウルキに「声が恐いからと退治されたら、怪物が気の毒だ」なんて言われてやめたけどよ。後から知ったのは、その辺りには海蛇や鮫がよく出るってことだ。
ネサラに教えると、微笑んで言われちまった。
「きっと大人たちが子どもが危ない目に遭わないよう、そうやってここから遠ざけたんだな。ウルキに感謝しておけよ。でなきゃあんたは、今ごろここにいなかったかも知れない」
「……そうだな」
鮫の歯はよく切れるから小型の刃物として重宝する。ベオクにも高く売れるそうだから、もしこの辺りにたくさん落ちてたら欲しいもんだなんて思ったが、それは言わないことにした。
わざわざ怒られる必要もねえし、もうここに潜ることもねえからな。
今度は俺がガキどもに教える番だ。ここには怪物がいるから近づくなってよ。
もっとも、今はセリノスに住んでるんだから必要ないかも知れねえが……。
そう思って岩場に背を向けると、ネサラが俺の気持ちを読んだように俺の背中に手を添えた。
夕暮れになってからは、海岸線をのんびり散策した。もちろん、目についた綺麗な貝殻や、時には小石を拾いながら。
繰り返す波の音が心地良い。セリノスもいいが、やっぱりフェニキスは別だな。
だが、朱色に染まったこの景色を見ていると、デインで夢に見た昔のネサラを思い出した。
……もう引き止める必要はねえんだよな。そう思いながら、でも足元の砂の感触を楽しむように歩くネサラの後姿を見ていると妙な気持ちになっちまって、俺はネサラの手から籠を奪って手を握った。
不思議そうに俺を見上げるネサラに黙って笑うと、ネサラは文句も言わずに俺の手を握ってまた歩き出した。
お互い、鳥翼族なのにな。しかも強いとは言えねえ足で、わざわざ歩きにくい砂浜を手を繋いで歩くのがおかしい。
本当に、ガキでもあるまいし……。
だが、なんだろうな。やけに幸せな気持ちになって、笑いたくなる。
「そういえば、あんたはその海の毒蛇を見たことがあるのか?」
「あるぜ。紐みてえな格好で泳いでいて、ガブリと食いつく。毒が強烈で、場所が悪けりゃ即死だ」
「……あんまり潜るなよ」
「わかってるって」
砂浜の感触を楽しんでいたら、ふと立ち止まってそんなことを言われた。心配してくれてるんだな。
そう思うとうれしいもんだ。俺は羽ばたいてネサラの前に降りると、少し肌寒いみたいな仕草を見せた肩を抱いて大きな流木の上に座らせた。
俺が座ると軋んだが、まだ崩れるほど朽ちてもいねえ。しっかりと引き寄せたら、俺は体温が高いからな。ほっとしたように身を寄せてくる。
「日が沈む……」
「海の夕暮れも良いもんだろ? 漁師のベオクが言ってた。夜になるってのは、太陽が海に沈んで火が消えることだってよ」
「その場合、朝はなんでまた火がついてるんだ?」
「え? そりゃ…誰かが火をつけるんじゃねえのか?」
「誰が?」
女神しかいねえだろと言いかけて、俺は思い出した。そうだよ。もう女神はいねえんだよな。
「馬鹿馬鹿しい。ただのおとぎ話だな」
「そう言うなよ。綺麗な話じゃねえか。おまえだって嫌いじゃないくせに」
「太陽だって疲れるんだろ。だから夜は寝る。朝は起きる。それで良いんじゃないか?」
鼻で笑って終わるかと思えば、真面目にそんなことを言うネサラが好きだ。唐突にそう思った自分がおかしくて、俺は肩に当たるネサラの髪の匂いをそっと嗅いだ。
潮の匂いに混ざって、ほんの少しだがキルヴァスの風呂で使った香油の匂いがする。ああいったものにもいろんな種類があるらしいな。
俺は興味ねえが好む連中も多いそうだから、そのうちまた鷹の特急運送の誰かに頼むとおもしろいものを探してくるかも知れねえ。
「見ろ。光の道だ」
太陽が沈みはじめて、海面に光の筋が延びる。あれは、海で死んだ者の魂が通る道なんだとよ。
そんなもんがあるのかどうか、俺にはわからねえが……。
ベオクにも、ラグズにも死者を悼む言葉がある。死者が行くと信じられている道がある。
それは、会えなくなった連中が大事だったからその分、遺された者が願うせめてもの安らぎなんだろう。自分にも、逝った相手にも……。
それぐらいしかねえんだよ。遺された者には。ただ、祈るしかできない。
逝っちまったヤツがどうか安らかな場所にいてくれるようにと。
「ティバーン……?」
光の道を横切った海鳥の姿に、ネサラの命を砕いた瞬間が重なった。
それから、死に逝くネサラの安らかな顔と。
だけど、苦しめたんじゃねえか? 俺は、迷ったんじゃねえか?
あの瞬間、その迷いがもしかしたら俺の鉤爪を鈍らせて、一思いに楽にしてやれなかったんじゃねえのか?
ずっと、心に引っかかっていたことだ。
同胞の仇を取ることも、こいつを守りきることも、俺は結局できなかった。
「ティバーン」
本当に…強くはねえな。
俯いて隠す前に立ち上がったネサラが傷のある俺の頬に唇を寄せて涙を拭い、そっと俺の頭を抱く。
いつ、如何なる時でも王でいなきゃならねえ。誰よりも俺はそれができると思っていた。
だが、俺はこの鴉を喪うことに耐えられなかった。
嫉妬なんかいくらでもあるさ。
それでも、俺のものでなくてもいい。誰のものでもいいから、生きていて欲しかった。
「ガキのころから…ずっとだぞ……?」
俺に懐いて、リュシオンといっしょに転げまわって…だけど、大人になった。
もう守らせてはくれねえ。空で唯一俺を殺せるほどの戦士に育ち、王になったんだ。
それでも最初は、まだガキだと思っていた。剛と柔――。こいつの持つ両方の強さを目の当たりにして、強烈に惹かれていった。
男でも女でもない。ただ、ネサラだ。それだけがすべてで良かった。
「ずっと知ってるおまえを…どうして俺が…ッ」
堪らず肉付きの薄い腹に顔を埋めるように掻き抱くと、ネサラは一瞬苦しそうな声を出したが黙って俺の頭を抱く腕に力を込めた。
俺だって納得してねえ。あいつら、本当に一人残らずこの手でぶち殺してやりてえ…!!
俺はまだいい。イズカも殺したし、バルテロメだって俺が殺した。
ネサラは誰も手に掛けていない。掛けられなかった。
だから、俺よりも悔しいのはネサラだ。俺はあとから事情を知っただけで、こんなに悔しがる資格はねえよ。わかってる。
それでも、どうしようもなく悔しかった。
どうして気がつかなかった! 無理にでも暴いてやらなかった!!
俺さえ動いていたら、こいつだけじゃねえ。鷹の民も、鴉の民も、もしかしたら鷺さえ救えたんじゃねえのか!?
それは俺の驕りだ。わかってるさ。思い上がりも甚だしい。
わかっていたが、俺にも、こいつにも、還らないものがあまりにも多過ぎる。
「ティバーン…もう、俺は大丈夫だ。悪かった」
「謝るな!」
「だって、あんたをこんなに苦しめるなんて…すまない」
「謝るなっつってんだろ!!」
無様だな。泣いて、駄々をこねて、俺はネサラを困らせてる。
ネサラが俺に好意を持ってるのは確かだろう。だが、それは俺とは種類が違う。
俺のは欲望と混ざり合った生々しい想いだ。ネサラのはもっと純粋だろう。
それがわかっていながら、俺は卑怯なことを言った。
ガキのように言うことを聞かない俺に困ったらしいネサラが小さく息をついて、それからぽんぽんと俺の背中を叩く。
ゆるゆると翼を撫でられて翼をしまうと、初めて俺の背中にネサラの腕が回った。まるで俺のでかい図体をすっぽりと包み込みたいように。
「大酒のみで、わがままで、……あんたは本当にどうしようもないな」
「悪かったな」
「怒ってない」
拗ねた気分ですすった鼻水をどうするか考えていると、笑ったネサラが自分の着ていた服で拭きやがる。びっくりしたぜ。潔癖なくせに。
「手巾を持ってこなかったのは失敗だったな。男前が台無しだぜ?」
「人のこと言えねえだろ」
「あんたが笑わなかったから、俺もあんたを笑ったりしないさ。だから、好きなだけ泣けばいい。俺が泣いた時、あんたはそうやってそばにいてくれた。俺も同じだ。あんたの気が済むまでそばにいるし、話を聞く。お互い、なかなか人前で泣けない立場なんだからな」
そりゃそうか。……はは、そうだな。
クソッ、それでもこいつの前でこの俺が泣く日が来るとはな。
「ネサラ…約束しろ」
「なにを?」
「必要になれば、俺は何度だっておまえを殺してやる。だが、もう二度とごめんだぞ?」
「…………」
なんとも言えねえ顔で俺を見下ろすネサラがなにを考えてるのかはわからない。
だが、俺の腕からネサラの命がすり抜けたあの瞬間だけは、もう絶対に忘れることはできねえ…!
「だから、約束しろ」
ネサラの両腕を掴む俺の手に力がこもった。
痛かったろうに顔色も変えず、ネサラはそっと笑って頷く。
それからまた俺の頭を抱いて、小さく囁いた。
「わかった…。約束する」
安心したら、また涙が出そうになった。
心地の良いネサラの腹から顔を上げると、蒼い燐光を浮かべた黒い翼がゆらゆらと動くのが見えた。本当に美しい翼だぜ。
……もう、二度と傷つけたくねえ。
俺は勝手だな。こいつとの戦いほど、俺の血をたぎらせたものはなかった。あの黒竜王との戦いでさえ、ネサラほど俺を奮い立たせるものじゃなかったのに。
「あんたの家、風呂はないんだろ?」
「悪い。そうなんだ。水場に案内するぜ」
ぐいと乾きかけた顔を拭って立ち上がると、俺はネサラの足元から貝殻入りの籠を取って飛んだ。
振り返った先に見える太陽は半分海に隠れて、まるで本当に燃えてるように鮮やかだ。
「綺麗だな…。本当に、綺麗だ」
「そうだろ? 自慢の国だ」
「あんたに似てる」
「あ?」
夕暮れの海が綺麗だって話だったよな? なんでそこで俺の話になるんだ?
意味がわからなかったんだが、ネサラは言うだけ言うと苛立った様子で早く水場に連れて行けとせがんでくる。
……しょうがねえな。
水場は集落のすぐそばだ。細い滝が落ちる少し開けた岩の水場に降りて、俺は先に酒瓶に水を汲んで貝殻をすすぎ、岸に置いてから顔を洗った。
今思い出してもこっ恥ずかしいぜ。なんでいきなり泣いちまったんだ? 自分でもよくわからん。
よりにもよってネサラの前とはな……。忘れてくれったって、絶対に忘れやしねえだろう。
「ネサラ? 早く来いよ」
「わかってる」
とりあえず、見られたもんはしょうがねえ。開き直るしかねえだろ。
そう思っていつもの調子で声を掛けたんだが、ネサラは来なかった。
後ろでごそごそしていたようだが、なにをやってやがるんだ? 不思議に思って振り返ると、雨避けの屋根の下に油紙を被せて置いてあった箱からランプを出して火をつけていた。
ここは共同の水場だ。俺たちは満月の夜でもあまり夜目が利かないから、一応置いてあるんだよ。
「ここにも咲いてるんだな」
「花か? これからはあちこちに咲くぜ。この辺りのは小ぶりだけどな。初夏になったら赤いのや白い大きくて派手な花が見ものになる。見たことなかったか?」
「ない。でも、俺はこのぐらいの花が好きだ」
言われてみりゃ、こいつの好きなセリノスにしか咲かないファヴィオラは、別名レース花と呼ばれる繊細な花だ。花も葉も小ぶりだし色合いも柔らかいのに自己主張が激しくて、一輪では可憐だがまとまると豪華に見えるおもしろい花だった。
なんつーか、鷺の森にしか咲かねえってのが良くわかる感じだな。
まあ、どんなに美しかろうと花は見るだけで腹がふくれるわけじゃねえ。どれかよくわからねえが、フェニキスに咲く花の中には干して茶葉にすれば肌荒れの薬になるものもあるそうだ。
赤くてすっぱいハーブティーで、俺は好きじゃねえがお袋がよく飲んでたような気がする。
「待たせたな」
「いや。おまえが早く身体を洗いたいんじゃないかと思っただけだ。石鹸も香油もないが、一晩ぐらいなら良いだろ?」
「それは構わないが…冷たい」
「湧き水なんだから辛抱しろ。上の方で湧いて流れてきてんだよ」
ざぶっとつかったネサラは仕方がないとでも言いたそうにランプを置いて、それからなにか俺の耳元に挿して顔を洗った。ついでに落ちてくる滝の水で頭も流す。
「なんだよ?」
「挿してろ」
「あ?」
意味がわからん。手にとって見ると、そこに咲いてるネサラが見ていた白い花だった。
花? 俺になんで花なんか……。
「そういう風習なんだろう?」
飾るんだ? そう首をかしげたところで真面目くさった表情でネサラに言われ、俺は息を呑んだ。
そうだ……! フェニキスの風習では、求婚の時に相手に花を飾る。
だから結婚を決めるのは大きな花の咲く時期が多い。
「ネサラ、まさか」
「べつにあんたが好きだと言ってくれたからじゃない。俺だってあんたが好きだが、本当はあんたと特別な関係を結ぶつもりはなかった。そんなの、赦されないことだし、一生誰とも添い遂げないつもりだったから」
濡れた髪を絞りながらさらりと言われた内容に、俺は必死に耳を傾けた。ネサラの正直な言葉だ。一言だって聞き漏らしたくねえ。
「だが、よく考えてみたらあんな真似をしておいてなんの責任も取らないのは男としてもっと赦されないだろうし、あの鷹にはああ言って自分だけ責任逃れするのは鴉の長としてあるまじきことだからな」
なにがすごいって、これが言い訳だとか照れ隠しじゃないってところだな。
真剣に考えながら言葉を紡ぐネサラには、微塵の照れも恋の告白をする甘やかな空気も一切なかった。
「だから、フェニキスの風習に則って求婚するのが筋だろうと思ったんだ。ましてあんたはこの国の王なんだから。それで、あんたはどうするんだ?」
そう言ってまっすぐ俺を見上げたネサラが馬鹿のように突っ立ったままの俺の手からさっきの白い花を取って、もう一度俺の耳元に飾る。
いや…ちょっと、待てよ。もしかして……嫁は俺かッ!?
「あ、あのな、ネサラ?」
「いやなのか?」
「そうじゃねえ! うれしいさ! そうじゃなくてだな、その……白い花は、女に挿すもんだぞ?」
恐る恐る、もしかしてなにか勘違いしてるんじゃないかと思って尋ねると、ネサラは片眉を上げて呆れた様子で言いやがった。
「だって、責任を取るのは俺なんだから、あんたが花嫁の立場だろう」
「ちょ、そこはせめて婿入りにしてくれよ!」
「ん? 言われてみればお互い男だよな。そんな場合はどうすればいいんだ? 二人とも赤い花なのか? 確かこの向こうに咲いてたような……」
そう言ってまた花を摘みに行こうとしたネサラの腕を掴んで引き止めると、俺はネサラを抱きしめた。驚いて広がった黒い翼が慌しくばたついてすぐにおとなしくなる。
「ティバーン…なんだよ?」
「うれしいんだろ!」
「そ、そうか。良かったな」
まったく、こいつはなんだってこう…!
男同士の場合のことなんか知るかよ。俺が聞いた範囲じゃ、酒を酌み交わして契りを結ぶ程度だ。女は花を飾り合うみてえだけどな。
ああ、クソッ! 今すぐ浴びるほどの酒とこいつが埋もれるぐらいの花が欲しい!
白い花でも、赤い花でも似合うだろうよ。あの花が咲いたら連れて来よう。こいつが面倒がっても、絶対に、引きずってでもだ!
「ネサラ……」
「なんだ?」
「ネサラ」
「だから、なんだって…」
頭の中にあった口説き文句が、全部消えた。
ただ熱に浮かされたように名前を呼ぶと、俺はすりつけるようにネサラの濡れた頭に頬を押し付け、引き締まった肉の薄い身体を抱いて、尖った耳元で囁いた。
「――いいか?」
しまった。これじゃ意味がわかんねえよな。
だが、意外なことに通じたらしい。ふるりと腕の中の身体も、目の前で動きを止めていた翼も動いた。
「いや…か?」
もちろん、出来る限り優しくするつもりなんだが。
そう思ってそっと離れて顔を覗きこむと、またなにかやけに真剣な顔つきで考え込んでやがる。
「ネサラ?」
我ながら遠慮がちに呼ぶと、もうすっかり暗くなった中、ランプの光を目に映したネサラがきらりとした目で俺を見つめる。
な、なんだ? まだなんかあるのか?
どうもこれは改まった方が良さそうだと思って姿勢を正すと、ネサラはゆったりと腕を組んで言いやがった。
「俺といっしょになりたいなら、一つ言っておくことがある」
「お…おう、なんだよ?」
「俺は、浮気は絶対に赦せないタチだ」
……………わかる気がするぜ。
「わかった。浮気はしねえ」
「ついでに、発情した鷹の誓いは信じるなという父上とニアルチの教えも、正しいと思っている」
「ちょ、ちょっと待て! じゃあ俺はどうすりゃいいんだ!?」
「簡単な話だ。浮気をしなければいい。酒も飲みすぎるな。無駄遣い…はしなさそうだから良いが、浮気は…しそうな気がするんだよな。あんたは」
そう言ってため息をつくネサラは思い切り本気だ。
いや、ちょっと待てよ!
「あのよ、俺がしねえって言ってるんだから、そこは信じとけよ。そうだろ?」
「はン、どうだかな。まあ、それも含めて『飲みすぎるな』と言ってるんだから、ちゃんと守ってもらいたいね」
「だから、守るって言ってんじゃねえか!」
慌ててそう言い募ると、ネサラはまだ迷うように俺を見上げて真剣な様子で続けた。
「ティバーン、俺たちはお互いに寿命が長いんだ。その意味をわかって言ってるんだな?」
「ああ。万が一俺が裏切ったら、八つ裂きにしてくれ」
「そんなことしないし、望まない」
最後には緊張した固い声になったネサラに深く頷くと、少しは信じてくれたらしい。組んでいた腕を下ろしてちょっと笑って、そっと身を寄せて来た。
抱きしめても……いいんだよな? 迷いながらしなやかな身体を抱きしめると、ネサラの腕が俺の首に回る。
引き寄せられて、俺の耳元でネサラが囁いた。
「もう一つ約束しろ」
「なんだよ? まだあるのか?」
「あんたは意外に無茶をするから…だから、健康に気をつけて、長生きしてくれ」
小さな声だった。俺を引き寄せるネサラの腕に、少しずつ力がこもっていく。
「浮気だってもちろんされたくない。でも……本当は、それだけで…いいんだ」
多くの場合は俺たち鷹の方が、まあ大きくても数十年程度の誤差だが、鴉より寿命が長い。だが、黒鷺の血が強く出た蒼鴉はべつだ。
鷺と同じぐらい生きることもあると聞く。……まして俺はこいつより歳上だしな。
こいつが普通の鴉だったら丁度良い誤差になったかも知れねえが、先のことはわからねえ。
だが、ぽつりと呟かれた最後の一言があんまり頼りなくて、いじらしくて、どうしようもねえほど深く、熱く俺の胸に愛しさがこみあげた。
「わかった。約束するぜ」
「………破るなよ」
「破るかよ。大事にする。ネサラ……」
見つめ合って、囁いて、潤んだように揺れた目に微笑みかけて、俺はそっとネサラに口づけた。
奪うような真似はしねえ。ただ触れる体温から気持ちが伝わるように。
冷たい水の中に立ってるってのに、身体が熱かった。
「俺の部屋で…いいか?」
今さらフェニキス城に帰るまでなんて待てるかよ。額を合わせて訊くと、ネサラの長い睫毛が震えた。頬も耳も赤いのは、見えなくたってわかるほどだ。こうして包むとネサラの肌も熱い。
「ど、どこでもいい。でも、外は嫌だ」
「よし」
辺りはもうすっかり暗くなっていた。ランプを掴んで片腕でネサラを抱えると、ネサラは籠と水の入った酒瓶を取る。
慌てたネサラの翼から丸い雫が散った。
「ティ、ティバーン…! 自分で飛べる」
「駄目だ。もう離せねえ」
「あのな、一生俺を抱えて仕事はできないだろ!?」
「それでもいい」
少なくとも、今の俺は本気だ。
ネサラは呆れたのか大きなため息をついて黙る。
水場から家までは見えなくたって飛べる。身体が覚えてるからな。
だがネサラを不安がらせねえよう慎重に飛んで、まだ上掛けを掛けたままの窓から先にネサラとランプを入れて、俺もあとから続いた。
「寒いか?」
「濡れたままだからな」
「待ってろ」
ここで飛び掛かるほどの青さはさすがにねえよ。箪笥から大きめの手ぬぐいを引っ張り出してネサラの頭に被せると、俺も自分の身体を拭いた。
服を着たまま水浴びしたからな。落ち着いて見れば床にもぼたぼたと雫が落ちる。
「ネサラ、脱げ。風邪をひく」
「え、いや…しかし……」
「どうせ脱ぐだろ」
顔を背けられた。しょうがねえな。
ネサラが髪を拭いていた手ぬぐいを取って濡れて張り付く短衣の紐を解きにかかると、ネサラがそっぽを向いたまま目を閉じた。
緊張してるな。ウルキじゃなくてもネサラの心臓の音が聞こえそうだ。
「心配すんな。ランプじゃ見えねえよ」
「……鷹の方が目が良いだろ」
やっと上を脱がせて干していた上掛けを手渡すと、ネサラは翼をしまって自分で肩から被った。それでほぼ全身が隠れて、やっとネサラの手がのろのろと下穿きに掛かる。
………やべえ。こいつの仕草だけで脳天以外にも血が行きそうだ。
俺も頭と身体を拭いたが、いきなり素っ裸になったら怖がらせそうだしな。下だけはいてなにやら自分の上着をごそごそするネサラを見守った。取り出して机に置いたのは、調合薬だ。一瞬、苦い記憶が頭を過ぎる。
「ネサラ、……大丈夫か?」
「まだなにもしてないだろ。薬もある。まあ、自己治癒能力が戻ったそうだし、前ほど酷いことにはならないだろうさ」
「心配すんな。怪我はさせねえつもりだ」
「それは無理だろ。気にしなくてもいい。そういう行為だってのは理解してるし、覚悟して受け入れたんだ。俺はあんたにあんな痛いことしたくないしな」
ったく、ぜんぜんわかってねえな。
真面目にそう言ったネサラの横に座ると、びくりと身体ごと強張りやがる。
あの時は正気じゃなさそうだったが、よっぽど痛かったんだろうな。
……なんとかあれは違うとわかって欲しいところだぜ。
そう思って寝台の上掛けごと抱き寄せ、俺は乱れた前髪をかき上げて額に口づけた。角度を変えてもう一回。それから細い髪を柔らかく味わうように生え際を滑らせて、耳にも口づける。
「……ん」
ネサラの唇から鼻にかかったかすかなため息が零れた。大丈夫そうだな。
緊張で強張っちゃいるが、時間を掛ければ解してやれそうだ。
「こういうことのやり方はどれが正しいとか、間違いとかは厳密には決まってねえ。だが、少なくとも痛いだけってのは間違いだ」
耳元で囁くように言いながら抱擁を深くすると、ネサラがゆるゆると目を開く。まだ意味はわかってねえだろうが、これから覚えてくれりゃいい。
「それを教えてやるよ」
背中を撫で下ろして耳に口づける。腕の中のネサラがまた竦んだ。だが、今度は恐怖心からじゃねえ。
それがわかるから乾いた唇をじっくりと滑らせてから、熱くなってきた耳に息を吹きかけて舌を当てると、押し殺した息を堪えるネサラがいやいやと首を振った。
中まで舐めたっていいんだが、まだ刺激が強すぎるだろうな。
頬に手を添えて顔を上げさせると、もう息が上がった様子のネサラが慌てて視線をそらした。参ったぜ。こいつ、ウブなくせにぞっとするような色気があるな。
口づけてそっと表面を舐めると、震えながら唇の力を抜く。精一杯応えようとしてるのがわかって、それだけでうれしくなった。
だから、いきなり舌を突っ込むような真似はしねえ。そっと表面だけを舐めてじっくりと誘いをかけると、おずおずとネサラも応じてくる。柔らかく触れ合うと逃げた。だがすぐに戻って、さっきよりも少しだけだが大胆に触れてくる。
抱き寄せた躰から力が抜けてきたのを見計らって、俺は腰を支える手はそのままでゆっくりと上掛けを肩から滑り落とした。
これなら一度腰で止まる。ぴくりとはしたが逃げずに躰を預けたネサラの前髪をかき上げて後頭部を包み、いよいよ俺は本気で口づけを挑んだ。
「…!」
きつく舌を絡めて吸うと、驚いたようにネサラが逃げようとする。だがそれを許さずに混ざり合った唾液を引き受けてやると、初めてネサラの手が上がって抵抗らしい動きを見せた。
息が止まらないよう、一度空気をわけてやって並びの良い歯を舐めてやる。
歯茎を刺激すると、背骨に衝撃が走ったように戦慄いてネサラが身を引きたがり、いっそう俺は口腔内の良いところを探しに出た。
「ん…っ、ん…!」
慌てたように俺の胸元を軽く叩く手が震えて、どうすれば良いかわからなかったように固まっていたネサラの舌が動いた。口の中を探られるより、舌をいじめられる方がましってことらしい。
その気持ちに応じてもう一度、今度は優しく絡み合わせると、ネサラにとっては予想外だったようで本気で逃げたがった。
なるほどな。今のところ舌が気持ちイイらしい。
立て続けにネサラの喉が鳴る。そうやってしばらく柔らかい舌に大人の口づけを教え込んでいると、躰の強張りがなくなりうっとりとした様子で俺に身を任せて来た。
ネサラの肌からあの甘やかな匂いが立ち上ってきた。欲情の証だ。
肌も汗ばむほど火照ってきてる。もう上掛けはいらねえな。それに、今汚したらあとで寝かせる時に使えねえから困る。
するりと引き抜いて椅子の上に投げると、ランプに照らされたネサラの素肌が浮かび上がった。
もちろん、あの時みてえに不自然にじゃねえ。優しい色にだ。
背中を支えてそっと寝かせながら唇を離すと、ネサラは乱れた息で胸を喘がせながら素直に寝台に横たわった。
「……ティバーン……」
「嫌だったか?」
「わ、わからない。ぬるぬるした」
「あー、確かにぬるぬるしてるよな」
こんな時でも真剣に考えて答える辺りが可愛いな。そういえば、俺も初めての時はそう思った。
「入れないのか?」
「それは最後のお楽しみだろ。おまえが気持いいって顔を見るのも大事な俺の楽しみなんだぜ?」
「…悪趣味だろ…!」
「悪趣味じゃねえ。それが普通なんだよ」
顔を隠そうとしたネサラの手を抱きこんだ腕で押さえて、前にも大きな反応を見せた腰骨を掴むと、やっぱり息を呑んで固くなった。ここも性感帯なんだな。
脚はどうだ?
「あ……ッ」
「閉じるんじゃねえよ」
膝から大腿まで内側の柔らかい部分を撫でようとしたら、固く閉じやがる。
本当はいきなりそんな場所を触るのは良くねえんだが、一つ気になってることがあるしな。俺は強引に自分の膝でネサラの脚を開かせて一番柔らかな内腿に手のひらを当て、ゆっくりと上に向かって滑らせた。
ネサラは声もねえ。必死に顔を背けて目を閉じるが、もう逃げられないからな。
まず鼠蹊部に触れた。ネサラが息を詰める。手の甲が先に緊張に満ちた袋の部分に触れて、その感触でわかった。
「そこは、さ…わるなッ!」
耐えかねたようにかすれた声で叫んで俺の腕を止めようとした手をものともせず、まず指先で触れる。
「い…や、だ…」
「触らせろよ。おまえの一番大事な部分だろ?」
情けない声で訴えられたが、とても聞き入れてやれねえ。薄い、張り詰めた皮膚の弾力を感じた。浮いた血管の筋はまだどことなく頼りない。
ひきつけでも起こしそうに忙しない息をするネサラを口づけであやしながら、俺は汗だけじゃねえ湿り気を帯びた指先をじっくりと先端に向けて滑らせた。
皮はまだあるんだな。完全には剥けてねえ辺りが発情期も知らねえ証拠みたいなもんだ。
それでも先端はちゃんと顔を出して自己主張してるらしい。つるりと滑らかな先端に親指の腹で触れると、とろとろと瑞々しい先走りを溢れさせる小さな孔にたどり着いた。
「ティバーン…!」
その孔をちょっといじると、悲鳴のような声で呼ばれた。
気持ちいいのか、ただ刺激が強すぎるだけか、声からは判断できねえ。
だが、ちゃんとネサラも勃ってる。嫌悪感なんざ欠片も感じなかった。
匂いだけじゃねえ。ネサラの躰が確かに性的に興奮してくれたことがわかって、俺は本気でうれしかった。
「そんな…そんなとこ、触るなよ…!」
「触りたいんだよ。気持ちいいか? どうするのが好きなんだ?」
訊きながら孔に当てた指を動かすと、鼻から泣き声のような喘ぎを漏らして何回も首を振った。
まあ、わかんねえよな。実際にやられてみなけりゃ。
握ってゆるく扱くだけでも腰が跳ねる。下手なことをすると楽しませる間もなさそうだ。
「もう、いやだ…!」
「ここでやめたら余計辛いぜ?」
本当はネサラのこれもじっくりとこの目で見たかったが、そんなことをしたら泣かせちまいそうで気が引ける。とりあえずは手で抜いてやるしかないだろうな。
ただ、わけがわからねえうちに出させることがないように一度張り詰めて弛みがなくなった袋の部分を掴んで引くと、ネサラが全身で跳ねた。
こうすりゃ出したくても出せねえ。射精を止める一番早い方法だ。
「ふ…! あ、あぁッ」
「一回我慢してから出せ。その方が絶対気持ちイイぜ」
俺の腕を掴んだネサラの薄い爪が食い込む。
もしかしたら他人に触られてるってだけでも興奮しちまう段階かも知れねえな。爆発しそうに張り詰めたその形を、目で見られない分、俺は丹念に手を使うことで味わった。
必死に声を堪えようとするネサラの全身が震える。それでも殺しきれずに漏れる小さな声は、俺の耳から腰まで甘く神経を撫で回すようだった。
「もう駄目か? 出したいか?」
きつく目を閉じたネサラが苦しそうに何回も頷く。
このままその顔を見て、口を押さえる手を無理にでも外して声が聞きたいなんて言ったら、睨まれるだけじゃ済まねえだろうな。
なにより、本当に限界みてえだ。
自分から許しを乞うても逃げたがる躰を押さえつけて、先端に指を当てたままゆるゆると握った手でしごくと、すぐに中から勢い良く溢れたものが俺の手を濡らした。暖かくて少し粘った、ネサラの命を繋ぐ種だ。
「ぁ…あ、あ……」
ちょっと切なそうな顔で、でも無防備に俺に躰を預けてビクビクと震えながらすべてを搾り出すネサラの姿を、俺は最後まで見つめた。
忙しなく、何度も上唇を舐める。ぴんと張り詰めていた全身の力がゆっくりと、蜂蜜が緩く溶けて流れるようにくたりと抜けて、やっと目が開いた。
「……ティバーン……?」
「気持ちよかったろ?」
よっぽど衝撃が大きかったのか、俺の言葉の意味が届くのに数秒掛かった。
ぼんやりと俺を見ていた目に正気の光が戻り、ぎこちなく視線を外してそれでも足りないとばかりに手で顔を隠そうとする。
ったく、しょうがねえな。
男がナニを扱かれて出すなんざ、当たり前の反応だろうに。
あんまり照れるもんだから俺は手ぬぐいで自分の手を拭きながら言ってやった。
「大丈夫だ。ちゃんと子作りできそうだぜ?」
「う…うるさいッ!」
ついでにネサラのそれも拭いてやると、俺はまだ顔を背けたままのネサラのこめかみに一度口づけ、鎖骨から首筋の血管に添って舐め上げた。
あの匂いの混ざった、かすかな汗の味がする。美味いなんて言ったら蹴られるだろうな。
「恐くねえよな?」
「………」
「やめなくてもいいな?」
目を閉じてとろんとし始めた様子のネサラに訊くと、ネサラは少し間を置いて頷いた。
だが、また俺が首筋に口づける前に頬に添えた俺の手を握りながら言ったんだ。
いつもの毅然としたものじゃねえ。恐らくは俺が初めて聞かせた相手だろう、そんな関係の相手と絡み合う閨ならではの…甘やかな興奮を秘めた声音で。
「俺は…どうすればいい? なにをすればいい? あんたにも同じことをすればいいのか…?」
「それはそれで魅力的だが、とりあえず俺がどこを触ろうが舐めようが、暴れないでくれりゃいい」
「――ちょっと、待て」
だが、その甘やかな声は一瞬で元に戻った。
これで了解を得りゃ早い。そう考えたんだが、いきなり正気に返った切れ長の目がぱっちり開いて、ネサラがむっくりと起き上がる。
「あんた、俺のどこになにをするつもりだ…!?」
「そりゃあおまえ…イロイロだろ」
「具体的に言え!」
言ったら絶対やめると言うだろうしな。
俺自身、多少は迷ってる。
いや、下世話な話、いきなりなにもかもやっちまうのは衝撃が大き過ぎるだろうし、なによりもったいないような、初めてだからこそそういうこともして驚かせたいような……。
今も本気で俺を睨みつけるネサラの顔を見ていたら、つい悪戯心が湧くしな。
「具体的に言うのは難しいな」
「なぜだ? こんなことにも手順はあるだろ。あんた一人でする行為じゃないんだぞ。俺には嫌なことを拒絶する権利がある!」
参った。こんな場面で本気で怒らせて、しかもそんなところが可愛いなんて、口が裂けても言えねえ。
「ティバーン、にやにやするな! あんたには珍しいことかも知れんが、俺は真面目に話してるんだ!」
本人に自覚はねえだろうが、やっぱり親友だな。もちろんリュシオン相手にこんなことはしたことねえが、屁理屈のこね回し方がよく似てやがる。
「どさくさでごまかそうったって…!」
どうしようもなくて笑っちまって、俺は怒り心頭の様子のネサラを抱きしめてネサラの手を導き、下穿きを突き破りそうな勢いでいきり立つ俺のそれを掴ませた。
息を呑んだネサラが、ぴたりと大人しくなる。
「……な? 俺もこういう状態で、あんまり理性が働いてねえんだよ。笑ったのだって無意識のようなもんだ。そう怒るな」
「いや、その…わ、悪かった」
「俺はな、おまえが愛しくて、可愛くて、どこにだって触りてえし、舐めてえし、おまえの中に入りてえ。さっきみたいに、できりゃもっと悶える顔を見たい。これはもう男の本能ってヤツだ。わかるか? わかんなくっても、そこは納得しとけ。むしろ諦めろ」
「あき…らめろと…言われても……」
ネサラは不服らしい。当然だろうよ。
いつものふてぶてしい態度は見る影もねえ。うろうろと視線をさまよわせて片手で口元を隠し、小さくなって逃げようとしてやがる。
だが、今さら逃がしたりはしねえし、後悔もさせねえ。
「…!」
「ネサラ……」
俺に背中を向けたネサラを後ろから抱きすくめ、耳元で呼ぶ。耳の後ろに口づけて、舐めて、時々痕を残しながら項まで滑らせると、俺は髪の生え際を舐めながら震えるネサラの胸に回した手の指先で、小さな尖りに触れながら囁いた。
いつもは存在感のねえそこが、俺の指に応えてゆっくり起き上がる。
「髪、解けよ」
ネサラが震えながら首を振る。ここで一つ譲れば、あとはすべて譲らなきゃならねえ。政治の駆け引きを知ってるからこその拒絶だ。
だが、この俺が許すかよ。
「解け。おまえが自分で知らねえ弱いとこ、全部教えてやる」
ヒク、とネサラの喉が鳴った。どんなに虚勢を張ろうが、ネサラの欲情は収まってねえ。むしろもっと強くなった。
立ち上るネサラの匂いに当てられそうなぐらいだ。
「腰骨のとこと、耳もそうだろ?」
「う…ッ」
少し動くたび全身でびくびくとはねる躰を抱きこんだまま、項から耳元に戻した唇で耳を咥える。いやいやして逃げようとした頭を引き寄せて、耳に直接口づけた。
「…ッ」
複雑な形の窪みから中までじっくりと舌でまさぐりながら、指で探っていた胸の小さな尖りを摘むと、ネサラが搾り出すような喘ぎを漏らして慌てて口を塞ぐ。
だが、そんな我慢が長く続くはずがねえ。
「ティバー…も、もう…!」
情けない声で哀願されたが、一度で許しちゃ意味がねえ。わざと音を立てて耳の奥まで犯すと、ネサラの腰が悶えるように揺れて摘んでいた部分にもいっそう固く芯が通った。
「あ…ぁ、や…いぁ…ッ」
ネサラの滑らかな肌がいきなり粟立つ。まるでひきつけでも起こしたように震えて、ぱたぱたと音を立てて寝台に落ちるものがあった。もう力が抜けてるからな。
腰を抱いていた手で震える脚の間を探ると、やっぱりな。
俺の手に、ネサラのそれから溢れたものが落ちる。射精じゃねえが、気持ち良すぎて軽くイっちまったんだ。
粗相したように漏れてくる、先走りに似た滑らかな体液を拭いた手ぬぐいがじっとりと湿って重くなった。
「どうするよ? 今度は本気で漏らしてみるか?」
「う…ぅッ」
こうなると本能が勝る。あんまり追い詰めたら泣かせるかも知れねえとか、優しくしてやりたいとか、最初に考えていたことは俺の中からもうほとんどぶっ飛んじまっていた。
俺の唾液でびっしょり濡れた耳に囁いてまた深く、舌を使って行為そのもののようなやり方で潜ると、いよいよ引きつった息が漏れた。
「最後だぜ。―――髪を解け」
耳から舌を抜くと、ネサラは浅く早い息を繰り返しながら震えて項垂れる。
ほとんど四つん這いに近い格好のまま、子どものように座り込んだネサラを抱え込んで、これが最後だ。声を低くして言うと、ネサラの唇から深い息が漏れる。
「く…くそ…ッ」
キンキンに尖った乳首を指の腹でやわやわと撫でて押し潰し、少し骨の浮いた脇をそろりと撫でたところで、履き捨てるように悪態をついたネサラの手がようやく上がった。
肩越しに俺を睨む目つきだけで殺されそうだ。
それでもためらうネサラがいじらしいが、俺は陥としたくてたまらねえ。俺のナニが先に粗相しそうに揺れて自分の腹に当たる。
この興奮は、殺し合いに似てる。
俺にそんな真似させんなと泣いておいて考えることじゃねえよな。だが――。
最後の最後まで、俺を墜とすために罠を張る狡猾さと、「鷹王」をこれっぽっちも恐れもしねえあの目は、きっと一生忘れねえよ。
チクショウ、いっそ喰っちまいたかったぐらいだ…!
「もう、好きにしろ…ッ!」
とうとうやけくそのように叫んだネサラが勢い良く髪を解いて、湿った蒼い髪が白い背中を覆う。泣きそうな声が俺の背筋を這い登った。
泣かしたくねえ。そんなことを思い出したのは一瞬だ。
ネサラの息が荒い。俺の息もだ。
長い髪をゆっくりとまとめて右の肩口から前へ落とすと、俺はまず項にきつく痕を残し、ゆるゆると背中を辿って肩甲骨の上、俺たちの翼が出るまさにその上に歯を立てた。
「ひ…ッ!!」
ここは鳥翼族全員の泣き所だ。正真正銘の悲鳴を上げてビクリとネサラが竦む。
「あ、え…? やめ…ッ」
最初の一舐めでネサラがわななき、逃げようとした躰を抱え込んで前に酷く傷つけた、ネサラの一番の秘部を片手の指で左右に割り開く。
まだ触れてもねえ。それでもネサラがあられもない声を出して身をよじり、その声でより興奮した俺の翼がばたついて、緑を帯びた羽が舞い散った。
|
|